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イチジク(無花果)について  
 
 つい最近関西方面に行ってきた。主たる目的地は淡路島と神戸の六甲山だったが、京都府の丹波・宮津方面にも足を伸ばしてみた。現地の地場産品を扱っている道の駅で、イチジクのドライフルーツを目にした。ドライフルーツになったイチジクというものをこれまで一度も食したこと経験がなかったものだから購入してみた。予想に反してドライフルーツらしい堅さを感じて思わずびっくりした。私の知っているイチジクはねっとりとした柔らかさが取り柄の果物というイメージが強かったからだ。 
 よくよく考えて見ると、そもそもイチジクを買うという行為そのものが私の人生の中で初めての経験だった。というのも、イチジクやカキと言った果樹は、子どもの頃から、どこの家にも必ず1本や2本敷地内に植えられていたからだった。だから、買う必要がなかったとも言える。それだけに、秋に、スーパー等で果物のコーナーにイチジクやカキが販売されるようになると、生産者の方には大変失礼な言い方で恐縮だが、それが商品として流通していることに奇異感を抱いたものだった。果たして、買う人がいるのかなと思ったものだった。しかし、時代の変化と共に、私の住む地域でも、自宅の敷地内にイチジクを植えているご家庭をあまり見かけなくなったしまった。実は、我が家にも長いことイチジクの木が1本だけ植えられていたのだったが、いつの間にか姿を消してしまっている。イチジクは、放置すると思いの外場所を取る樹木でもある。(物の本では、一説には5m以上とも、また別の書では10m以上とも述べてあった。)それだけに、一般の家庭では、他の植物に取って代わられてしまったのではないだろうか。
 もう一つ、ナシモモリンゴと言った果物の栽培圃場は良く目にするが、私の住む地域では、イチジクの生産という言葉をあまり耳にすることがなかった。随分昔の話だが、大阪で花博が開かれた頃に、仕事で京都に向かった。所用を済ませて、京都から大阪に向かう車中で、私には見慣れない光景が目に入ったものだから、タクシーの運転手さんに尋ねたところイチジク栽培の畑であると教えられたのだった。広大な敷地に整然と植えられているイチジクの木は、私の知っているイチジクとはまるで様相を異にしていた。樹高も人間の身長より低い程度であり、枝もあまり長く伸ばされてはいなかった。我が家の敷地に植えられていたイチジクは、誰も剪定などしなかったものだから、自由奔放に伸びていた。
そして大きな葉っぱをつけていたものだった。それだけに生産農家のイチジクは、別の植物では無いかと思えるほど整然としていて、一本一本の木もスマートに整えられていた。その後、気をつけて見ると、瀬戸内地方や奈良県などで何度もイチジク農園を目にするようになった。物の本には、埼玉や千葉等の都市近郊の農家でも栽培されていると記述されているが、未だに関東地区では目にしたことがない。比較的果物生産が盛んな山梨や福島でもまだ目にしていない。それだけに私の印象では、イチジクという果物は関西が生産の主流と個人的には思えて仕方がない。 
 イチジクと言えば、アダムとイヴの逸話にも登場する。旧約聖書の最初に登場する植物としても知られているが、人類が最初に栽培した果樹としても知られている。つまり、人類の歴史の中でかなり長い年月を共にしてきた存在とも言える。一説には、アダムとイヴが食べたと言われる「禁断の果実」とはリンゴではなくイチジクであったとも言われている。実際に古代エジプトの遺跡からもイチジクが出土しているということである。我が国では、イチジクを「無花果」と表記することから、屋敷内にイチジクの木を植えると子孫が絶えるとして忌み嫌われてというが、古代エジプトでは、たくさん実がつくことから多産のシンボルとして神に捧げる果物として用いられたということであることから、洋の東西によってイチジクに対する価値観が反転していることになるから面白い。
 そもそも、イチジクはアラビア半島南部から小アジアが原産地ということである。つまり、あまり寒くない地域というよりもむしろ暖地性の植物と言うことになる。中近東地域が原産地言うことであれば、西洋社会にも東洋社会へも丁度中間的な位置にもある。加えてアフリカにも至近距離であることから、この植物が文物の交流の一端として他地域へと異動していったであろうことが容易に推測が可能である。イギリスには古代ローマ人が伝えたのが始まりと言われている。イギリス人の手でもたらされ記録としては、1525年にローマから持ち帰ってロンドン郊外に植えられたのが始まりらしい。(しかし、イギリスでは実が熟すことがないために今日でもイタリアやスペインからの全面的な輸入に頼っていると言うことである。やはり高緯度地域での栽培には適していないようである。我が国でも、北海道では栽培が無理と言うことである。)アメリカ大陸には16世紀末には新大陸に移住を目指さしたスペイン人の手によってもたらされている。我が国へは、寛永年間(1624~44)にポルトガル人の手によってもたらされている。つまりアメリカよりも我が国への渡来が時期的には遅かったことになる。隣国の中国へは、既に唐代にペルシャからもたらされている。唐代の頃には、「阿馹」とか「阿駅」或いは「阿駔」などと表記されていたという。以前、別の項でも述べたことだが、中国では、自国に自生する植物には漢字一文字で表記する習わしとなっている。つまり、漢字二文字を用いて表記するということは、それが外来の植物であることを物語っている。恐らくペルシャ語からの音訳だったと言える。やがて、時代を経て隣国が宗の時代に至ると、今日我が国でも用いている「無花果」という表記法が用いられるようになり今日に至っている。等しく宗代には、やはり我が国でも用いられている「映日果」の表記も生まれている。これはペルシャ語のanjirからの音訳の結果生まれた表記方式であり、上述の「無花果」の場合は植物の性質から考案された方式と言うことになる。今日、イチジクの漢名は「無花果」であり、「映日果」は別名扱いとなっている。 
 我が国では、「イチジク」の語源には、上述のペルシャ語のanjirからヒンズー語のInjirを経て中国語の「映日果」となり、その転訛としてイチジクとなったというような説明が多く見られる。しかし、我が国では、イチジクの渡来以前にはイヌビワの古名がイチジクであったことは知られているところである。つまり、そもそもイヌビワの別名だったイチジクが渡来植物に取って代わられてしまったということになる。イヌビワの形状がイチジクに似ていたことによるとも言われている。それはよしとしても、日本語としての「イチジク」の語源が分からない。また、一部の書では、イヌビワの古名の欄に「イチジク(無花果)」と記述してあったりもする。これはおかしいと思う。古名はご存じのように万葉仮名で表記されているからだ。つまり、日本語としての「イチジク」という言葉の語源は色々とあたってみたが皆目分からない。何方かご存じの方がおられたら、是非ご一報の上でご教示願いたい。
先日、本稿をお読みいただいたある方から有り難いことに、ご一報を頂戴した。農林水産省のフェイスブックにイチジクの語源が掲載されているというご報告であった。早速アクセスしてみた。次に、いつも愛読している『図説 花と樹の事典』(木村陽二郎:監修 植物文化史研究会:編 柏書房刊)を開いて見た。同書の「イチジク」の項には、次のように記載されていた。
 和名由来 
 ① ペルシャ語anjirを音訳して漢名「映日果(いんじえくお)となり、この音からイチジクとなった。
 ② イチジュク(一熟)で、一月で熟す、毎日1個ずつ熟する、いち早く熟する等の意
と出ていた。
 お知らせいただいた農林水産省のフェイスブックでは、上記語源の②に記した内容がそっくり掲載されていた。
 
 イチジクは、早くからエジプトやギリシャ等に渡ったために、様々なエピソードが残されている。また、神話にも多々登場している。特にギリシャで改良が加えられたらしく、アッティカ(Attica)のイチジクは特に美味しいと言うことで知られていたらしい。当時の代表的なイチジクはcarica種であったというが、ギリシャが小アジアのCariaから移入したからと言われている。このcarica種をめぐって、ペルシャ王は、その美味として知られるイチジク欲しさに戦争を挑んで敗戦の憂き目を見ているのだった。因みに、今日、イチジクの学名にFicus carieaと表記されるが、種小名のcarieaとはギリシャ語の「直立した」の意である旨の解説を目にするが、個人的には、小アジアのCariaとの関連では無いかと推測しているのだが、如何なものだろうか。とにかくギリシャのイチジクが良質であることは自国も他国も認められていたらしく、ギリシャ国内ではイチジクの実の国外への持ち出しを法令で禁じていたほどであったという。当時のギリシャでは、イチジクは主要食品であった上に、特に体力と脚力の増強には欠かせない食べ物としてオリンピック競技の参加者はイチジク以外は食べなかったと言われるほどであったという。
 
 キリスト教の世界では旧約聖書に最初に登場する植物がイチジクであったと上述したが、イスラム教の世界でも、マホメットがイチジクの実で誓いをたてたと伝えられていて、イチジクの実はイスラム世界では”The Fruit of heaven"として神聖視されていると言われる。キリスト教の世界でも、聖母マリアと幼児キリストがヘロデ王に追われた時にイチジクの木に身を隠して難を逃れたとして、これまた神聖視されている。ローマ神話の世界でも、イチジクは神聖視されている。ローマ帝国を建設したとされるロムニスは、イチジクの木陰でオオカミの乳を飲んで育ったと言われており、古代ローマ人の世界でもやはり聖木としてあがめられたという。また、ローマ神話の世界では、イチジクの木は酒神バッカスにささげる神事に用いられたとされている。そこで、絵画に描かれたバッカスの頭にはイチジクの葉が描かれていことになるのだった。 
 一方で、キリストを裏切ったとしてユダが首をくくって死んだのはイチジクの木であったという伝説もあり、不吉な木の象徴としても扱われている。イギリスでは、イチジクの木には亡者のたむろする場であるとして不吉な樹木扱いになっているという。また、西洋社会では、特にイタリアやスペインでは他人を毒殺するのにはイチジクの実を用いたと言われてもいるので、不吉や軽蔑の象徴にもなっていると言われている。 
 我が国では、屋敷内にイチジクを植えると子孫が絶えるとして忌み嫌われたと上述した。しかし、カキノキとイチジクの木は、どこのご家庭でも見られたとも述べた。両者は矛盾しているようにも思えるのだが、イチジクの場合、果物としてよりも、むしろ民間薬としての効用が多く求められたのではなかろうかと推測されるのである。イチジクは、「無花果」と書かれるが、実際は、果実のように見えるのは、花であることは先刻ご案内の通りである。栽培されているイチジクの場合、雌花である。加えて、開花しないので、受精もしない。したがって、当然結実しないということになる。つまり種子を得られないのだ。にもかかわらず世界各国に広く普及したのは、挿し木で容易に増殖が可能であったからであろう。そして、我が国で広く普及した要因としては、食用としてよりもむしろ薬用としての有用性に価値が置かれたからではなかろうかと思うのだ。
茎も葉も、そして切ると真っ白い乳液状の汁が出てくるが、その汁も薬用として用いられたのだった。それまでの民間薬や漢方薬に無かった効用が求められて我が国では広く普及したものと思われる。挿し木で増殖が可能と言うことなので、普及は容易だったものと推測されるのだ。今や我が国でのイチジクの代表的品種としての「桝井ドーフィン」も明治42年(1909)に広島の桝井光次郎氏によってアメリカからもたらされたものであるが、桝井氏は帰国時にたった3本の枝を持ち帰っただけと言うことである。それを挿し木したものが今日にまで至っているのだ。 
 昔、我が家にもイチジクの木が敷地内にあった。しかし、毎年カミキリムシの幼虫(テッポウムシ)が住み着いて、根元の部分が穴だらけになってしまったのだった。やがて倒れてしまったのだ。カミキリムシは、成虫になると、今度はカエデの枝を傷つける。どうにも困ったものだった。そこで、我が家では、カミキリムシを招くことがないようにとの意味で庭からイチジクの株を掘り起こしてしまったのだ。 
 ところで、上に、イチジクは結実しないと述べたが、アメリカ・カリフォルニアで生産されているトルコ原産のスミルナ種というイチジクの場合には種子が得られるという。つまり交配が行われることになる。しかもイチジクは虫媒花なのであるという。プラストファガと呼ばれる小さな蜂がイチジクの受精に寄与しているというのである。この蜂は、交尾が済むと、雌は散乱のためにイチジクの果実を食い破って侵入するのだという。その際に、他のイチジクの実からやってきたために、花粉も運ぶのだという。そこで、受粉を促し、結果として種子が出来るというのだ。スミルナ種は概してドライフルーツにされるというので、その中に種子がたくさん入っていると言うことである。イチジクにはすべて種がないと言うことではないと言うことになる。   カナダ・モントリオールの果物店で↑
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 昨日、今日と、梅雨の走りらしく天候が不順である。少しでもさわやかな音楽が欲しかったので、珍しくグラス・ハープの音色を聴いた。かつてカナダ・ケベックのシャトー・フロンティナックに宿泊した際に、ホテル周辺を散歩している時に、路上でグラス・ハープを演奏している光景を目にした。私にしてみれば、グラスハープ演奏を目にするのは初めてだった。演奏者に、写真撮影の許諾を得ると少しも嫌がらずOKしてくれた。その時に、そのストリート・パフォーマーから購入したCDである。内容は、サイモンとガーファンクルやビートルズのナンバーであるが、とても爽やかな印象を与えてくれる演奏である。果たして、国内でも販売されているのだろうか?CDのジャケットにはメルアドやURL、そして、電話番号、住所までも記載されているのだが・・・・・。
 H.21.06.01