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火・燃料
 このコーナーは、私の個人的な回想録を記している。したがって、「火」と言えば、プロメテウスが人類にその使用を教えた結果として、人類の文明が飛躍的に進歩をしたというような大それた内容の記述をする積もりはないし、仮にあったとしてもそれをこなせるだけの力量も知識も私には備わっていないことを自分自身で十分に承知している。
 しかし、「火」と言うものの思い出で先ず最初に思い起こされるのは、幼少時の体験である。他のコーナーでも何度も記したことではあるが、私は東京で生まれ、終戦の年に現在の群馬県に移り住んでいる。幼少時、我が国は戦争に入った。そして、酷い敗戦の憂き目に遭った。終戦間近の頃は、私の住んでいた東京は米軍からの空襲を受けた。それも、何度も何度もだった。
「空襲警報発令!」
「空襲警報発令!」
というアナウンスが流れると、ブーンという重苦しい爆音が響き伝わってくる。米軍のB29という爆撃機のプロペラ音である。誰もが、今度は、東京のどちら方面を爆撃するのかと、その爆音の方角を探るのだった。
 やがて、
「空襲警報解除!」
「空襲警報解除!」
というアナウンスが流れると、誰もが助かったと安堵するのだった。
だが、昭和20年4月初旬のことだった。またしても、
「空襲警報発令!」
のアナウンスがあり、B29の爆音は、私たち家族の住む方角に向かって飛来してきた。その日、父は、母の実家のある茨城県までお葬式に出かけていた。母の弟、つまり私の叔父が戦死したからだった。我が家では、私の直ぐ下の妹が生まれて10日程だったので、母は出かけられなかったのだ。B29の爆音が近づくと母は、家を出て逃げることを決意した。近くの防空壕まで走って逃げるのだ。防空頭巾を被って、家を出ると、空には火の粉が飛び散っていた。あちこちの建物から火が出ていた。子どもながらに、これまで見たこともない壮絶な光景に、思わず足を止めてしまうと、母が、私の手を固く握って走り出した。
 途中で、兵隊さんが
「伏せろ!」
と大声で叫んだ。
 私たち親子は、道路に身を伏せた。その時に、母が、私に、母の背中にいる妹の安否を確認するように告げた。私は、身を伏せたまま顔を上に向け、妹を見た。すると、驚いたことに、目も口も鼻も確認できなかった。
「お母さん、○○(妹の名前)の顔がありません!」
と母に告げた。
すると母は、
「この空襲の最中に、冗談言ってる場合じゃない!」
と私を叱り飛ばして、その場で、自分の背から妹を下ろした。私も、恐る恐る妹の顔を見た。妹は無事だった。後に、笑い話として我が家では語り継がれることとなったのだったが、我が家を出る前に、母の背中に妹を背負わせたのは私だったのであり、私は、その時に妹を背中合わせの状態で、母の背に乗せてしまったのだった。だから、母に妹の安否を確認するように言われた時には、私が目にしたのは妹の後頭部だったのだ。空襲の時には、敵機に狙われないように明かりを全て消すのだった。それだけに、真っ暗な路面では、それが妹の後頭部とは私には判別出来なかったのだ。それにしても、良く空を飛び交う火の粉が、妹の顔の上に落ちてこなかったものと、安堵するとともに奇跡と思った程だった。
 翌朝、防空壕から出て、我が家を見に行った。辺り一面は将に「焼け野が原」だった。一夜にして、三次元の世界が二次元の世界へと変貌してしまったいた。つまり、単純な言葉で表現すれば、全て焼け落ちて何処までも見渡せる平面と化してしまっていたのだった。まだ、燃え残っている木材から出る煙はあちこちから立ち上り、焼け焦げた匂いが辺り一面を隠さず包んでいた。我が家も、跡形もなく燃え尽きてしまったいた。我が家の前の道路の向かい側は炭屋さんだった。その店の炭が真っ赤になって大きな塊となっていた。その火力があまりにも熱くて、自宅には近づけなかった。数日後、自宅跡に行ってみたが、何も彼もが燃え尽きてしまっていた。全て黒焦げになっていた。幸いなことに、家屋内には、日常生活に必要な最小限の物以外は、父は、防空壕に事前に保管してあった。それらの家財道具一式をリヤカーに乗せて、東京から、群馬県まで歩いてきたのだった。冒頭に、プロメテウスが人類に文明の礎として「火」の扱い方を教え、人類はそれを基に文明を構築してきたと述べた。大人になった時点で、空襲時の体験を振り返って見れば、「火」というものは、人類の構築した文明を無に帰してしまうことも可能であるということを幼少時に学んだように思っている。いずれにしても、「火」というものは「恐怖」以外の何者でも無いと幼少時には学んだのだった。
 子どもの頃、良く聞かされたお伽噺の一つに『浦島太郎』がある。
 昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんがおりました。
 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川にせんたくにゆきました。
と始まるのだった。ここで子どもの頃の私は、いつも疑問に思って過ごしてきた。果たして、おじいさんはどんな山に行ったのだろう?という疑問だった。絵本の絵を見るとおじいさんは竹籠を背負っている。私の疑問は、「しば」の生えている山とはどんな山なのかという疑問だった。つまり、私の脳裏には「芝」が思い描かれていたのだった。もっとしつこい表現をすれば、私のヴォキャブラリーの中で、「しば」と呼ばれる存在は「芝」だけだったのだ。そして、その疑問が解けるまでには、随分永い年月を要することとなったのだった。「芝」以外に、「しば」と発音する語彙が私の頭に入ってきたのは、高校2年生の時だった。北原白秋の童謡「かやの木山」の中の一節で
  粗朶たき、柴たき、燈(あかり)つけ
という文言に出会ったのだった。もちろん、それ以前から「柴」という漢字を「しば」と読むことは承知していた。しかし、恥ずかしながら、高校2年生になるまで、「柴」という漢字の意味するところを知らなかったのだった。この白秋の童謡の中で「山家のお婆さんは囲炉裏端」とあり、「粗朶たき、柴たき」をしていたとされている。そこで、初めて、浦島太郎のおじいさんは、山に行って「柴」を刈りに言ったのだと合点がいったのだった。そういえば、浦島太郎に登場するおじいさんは、竹籠を背負い、手には鋸を持っていたようなかすかな記憶がある。
 冒頭の話の続きとなるが、現在住んでいる群馬の地に移り住んで、これまた学んだのは「火」がないと人は生きてはゆけないということだった。先ずは、朝食の準備をするにしても、火が無いとそれが出来ないのは、東京に住んでいた頃から承知はしていた。だが、当時の当地では、各家庭にガス等の設備が無かったのだった。そこで、先ず最初に、「火起こし」をするのだ。煮炊きをするためにも、冬場では、暖房のためにも、火は欠かせなかった。この「火起こし」という作業は、端から見ていれば容易な作業であるが、経験が無いと、中々火は起きてくれないものだった。父も母も、少しも躊躇わずに、火起こしをしたものだった。白秋の童謡に登場する「粗朶」も「柴」も火起こしには欠かせなかった。ただ、ある程度の火力になると、今度は薪に代えるのだ。なぜかというと、「粗朶」も「柴」も燃え易いが、火力は弱く、直ぐに燃え尽きてしまうからだ。
 ところで、私は、如何に戦前の生まれとは申せ、昭和の生まれである。着火は既にマッチで行われていたことは言うまでもない。当時は、何処のご家庭にも常備されていた。ポケットに入るような小さなマッチではなく、大箱のマッチだった。そのマッチで着火をして直ぐに、上述の「粗朶」や「柴」に火を写しはしなかった。例えば、枯れた松葉や杉の枯れ枝にマッチの火を移すのだ。すると、即座に火は赤々と燃え上がる。そこに、枯れた木の枝、つまり、「粗朶」や「柴」を乗せるのだ。そして、その後は、徐々に太い径の樹木、つまり薪等へと燃料の素材を代えて行くのだった。
 火起こしで、マッチで着火するのは容易い作業だったが、樹木を燃すに至る前段階では、マッチの火を移す素材が必要だったのである。前述のように、それは枯れ松葉や杉の葉等であった。それは「焚き付け」と呼ばれたものだった。この焚き付けがないと火起こしに難儀するので、それを集めて保管する必要があった。そこで、特に冬場になると、子どもと言えど重要な仕事を課せられることとなった。季節風が強く吹くと、松葉等が地に落ちる。細い枯れ枝も落ちる。それを掻き集めるのだ。前夜に強風が吹くと、早く床に入った。当時は、テレビ等存在しない時代だから、夜はとにかく寝る以外に楽しみはなかった。早寝をして、翌朝早起きをして、竹籠を背にして、手には竹製の熊手を持って、近所の赤松林や杉林に出かけるのだ。朝食前の仕事ということになる。誰もが、そうした役割を担っていたのだった。それが無い時にはどうするか。薪を鉈で細く割るのだ。或いは、紙類を用いることもあった。ただ、例えば、古新聞紙等は、他に用途があったので、滅多に使用することは無かった。では、雑誌等の書籍類はと言えば、終戦直後の一般家庭では、定期的に雑誌等を購入することはなかった。従って、焚き付け用の燃料が重要だったのである。落ち葉等は重要な焚き付けだった。昔は、何処のご家庭でも漬物をしたものだった。その一つにナスの塩漬けがあった。大量に漬け込んで、翌年にナスが収穫出来る頃まで維持する。そのため沢山のナスを栽培するのだった。晩秋になると、収穫を終えたナスの茎は抜いて乾燥させる。それも重要な燃料となったのだった。
 以前視たあるTV番組を思い出す。それはネパールの少年の生活を描いた報道番組だった。10歳前後と思われる少年が、急な山の斜面で、燃料となる枯れ木を探しているのだった。彼は呟く。
 「みんな、お腹空かして待ってるだろうな。僕が帰らないとお母さんが夕飯の支度が出来ないのだ。」
と。
 だが、彼の立つ山の斜面には、疎らに樹木が立っているだけだった。
 その場面を目にしながら、終戦直後の自分たちの子ども時代を重ねていたものだった。
 
 火起こしする時には、必要な物があった。今では、すっかり目にしなくなってしまったが「十能」・「消し壺」・「竈」・「五徳」・「金火箸」・「火吹き竹」等々である。どの家にもあった謂わば日常生活の必需品である。これらの中で、「消し壺」は恐らく今時の人には想像もつかないのではなかろうか。
 「消し壺」とは鋳物、詰まり金属製の壺だった。蓋も重味のある金属製である。何に使用するか。それは、火を使用しての調理等が済んだ時点で、燃えさしの木材などをその「消し壺」に入れるのだ。正確に言えば、木炭も入れれば、燃えかけて炭化した木材等を入れるのだ。すると中に空気が入らないから自然に壺の中で消火する。ここで出来た上述の燃えさしの木材は「消し炭」と呼ばれていたものだった。次回に火起こしをする時には、この消し炭を入れると燃焼が早くなるのだ。
 唐突に話題が変わってしまう感を免れ得ないが、昔は、お祝い事があると、どちらのご家庭でも赤飯を炊いたものだった。それをご近所や親戚筋にお配りしたものだった。漆塗りの木箱に入れてお配りしたものだった。するとその漆塗りの木箱が返却される時に、決まって中にある物が入っていたものだった。それは当時、「付け木」と呼ばれていた生活必需品だった。「付け木」とは、スギやヒノキを薄い木片にして、その先端部分に硫黄が塗りつけられているものだ。この付け木の先端部分にマッチの火を点けると、直ぐに着火をし、明るく燃え上がるのだ。つまり、「付け木」とは着火材なのだ。この「付け木」の火を枯れ落ち葉等に移すと憩いよく燃え上がる。その上に木々の枯れた細枝を乗せ、火を強くする。その後に上述の「消し炭」や薪を入れる。やがて木炭を入れると言うことになる。つまり、「付け木」は火起こしの第一段階に重要な役割を果たしたのだ。
 ところで、近年はすっかり影を潜めてしまったものに「マッチ」と「木炭」がある。今も木炭はバーベキュー等で用いられるし、ウナギ屋さんや焼き鳥屋さん等でも目にすることがあるかと思う。この木炭は昔の生活では欠かせない存在だった。もちろん調理等では当然なのだが、暖房にも用いられたのだった。特に「火鉢」だ。灰の中に木炭を入れておくだけで、煙を出さずに真っ赤になって熱を発散させてくれるし、等しく当時欠かせない燃料だった薪との大きな相違点があった。火力の強さも当然木炭に軍配が上がるのだが、有り難いことに木炭は長時間発熱を続けてくれるのだった。毎夜、就寝前に、火鉢の中の木炭の上に灰を被せて置くのだ。翌朝、朝起きて先ず行う家事は火起こしだ。その時に、火鉢の中の木炭の上の灰を除けると、未だ赤い木炭が残っている。その赤い部分に上述の付け木を押しつけ着火させることができるのだ。そして火鉢の中には木炭を加えておけば、皆が目覚める頃には、火鉢は暖かくなってくれるのだ。
 若い頃の唯一の趣味は登山だった。縦走と言って、尾根伝いに山から山へと歩いたものだった。当然、夕刻になると野営をしたものだった。夕食の準備には火が必要だ。必ず自裁したのは、ライターだった。マッチも持参したことがあるのだが、大きな欠点があった。大汗を掻いたり、途中で俄雨に遭ったりすると、マッチは濡れてしまって着火しないのだ。そこでライターが必需品となったのだった。私の20代後半になると、有り難いことに固形燃料なるものが登場した。金属製の缶の中に入っていた。液体ではないので、漏れる心配もなくザックに入れられたのだ。この固形燃料の登場により、山での火起こしが随分楽になったものだった。やがて、それが今ではガスバーナへと変化している。バーナーの場合、昔の五徳のような形状の部品がついているので、直接調理器具をその上に乗せることが可能となり、願ったり叶ったりとなった。。 

 
 やがて、時代が進む内に、燃料にも変化が起きてきた。石油・石炭やコークス等も登場したが、一般家庭で用いられるようなことは無かった。ただ。学校のストーブに用いられた。石油の場合は、その後暖房用に一般家庭でも用いられることとなった。
 やがて、練炭や炭団(たどん)といった燃料が一般家庭には浸透してきた。どちらも木炭や石炭の粉末を粘着剤で固めたものである。どちらも長時間持続可能な燃料である。したがって、各種調理ばかりでは無く暖房にも用いられたことになる。ただ、煙は出ないのだが、異臭がする上に人体に宜しくないガスが発生する。練炭を使用している部屋に入ると独特な臭気で直ぐ分かったものだった。
 やがて、ガスが一般家庭にも普及をみるようになった。ガスの登場で、何より助かったことは、もちろん着火が簡単だと言うことである。だが、それだけではない。日常的に燃料を確保しなければ生活が成り立たなかったのだが、それから解放されたと言うことである。更に、燃料となる木材等を確保出来ても、それを燃え易く、加えて運び易くするために、薪割りという作業も必要だったが、それからも解放されたのだ。それだけではない。薪割りをする前に、薪を束ねて積み重ねて置くためには、薪割りの前に、一定の長さに切りそろえなければならなかったのだ。そして、薪割りを終えた薪を束にして、積み上げて保管するのだ。濡れないような場所に保管しなければならない。これも馬鹿にならない。そうした労力と保管場所からもガスの登場は解放してくれたのだった。
 ある年、カナダ東部のローレンシャン高原に住む知人宅を訪ねた。今時のことだから、如何にカナダの高原地帯とは言え、調理等の燃料はガスだった。だが、ストーブは、相変わらずの木材を燃料としていた。そのために、家の外の小屋には、薪がたくさん積まれていた。知人は言った。
 「何しろ、カナダの冬は長いので・・・。」
と。
 ところで、先年、東北地方で大きな地震があった。私の妹は、茨城県のひたちなか市に住んでいる。その自信の際、茨城県も大きなダメージを受けた。震災後、各種のライフラインがストップしてしまい被災者の方々は、不自由な生活を強いられたことになる。家屋も被害を受けたが、その後の日常生活の中で、何よりも困ったのは食事の準備だった。水道が出ないというので、群馬に住む私は、車に積めるだけ水を運んだものだった。ところで、ひたちなか市は珍しく都市ガスではなく、どちらのご家庭もプロパンガスであった。そのために、水さえあれば煮炊きは出来ると、喜んでいたものだった。
 さて、最後に、ガスにまつわる個人的な思い出話を述べて今回の回想録を終えたい。
 未だ、20台の頃、勤務していた企業の研修で京都の山科にある一燈園に行った。研修が済んで、中国地方を周遊する旅に出てみた。一人で、京都から日本海側を走る電車の中で過ごしている時に、ある女子大生と乗り合わせた。彼女は冬休みなので実家に戻る途中と言うことであった。彼女のご実家は旅館を営んでいるという。特に宿の予約もしていなかったので、彼女のご両親が営む旅館にお世話になることにした。宿では、彼女が、若い男性を引き連れてきたものだから、恋人ででもあるかと勘違いされて歓待を受けた。その宿で一番の広い部屋に通された。すると、女中頭なる女性が登場し、その宿ではたった一台というガスストーブなる文明の利器を設置してくれたのだった。そのガスストーブへの着火のシーンを今も忘れられずにいる。その女性が私に行った。
 「お客さん、できるだけ遠くに下がってください。私は、ガスストーブは苦手なんです。」
と。
 そして、ガスを出すと、一歩自分でも後ろに下がり、マッチを擦って着火した。すると、その火のついたマッチを、やおらストーブ目がけて投げたのだ。その瞬間、ガスストーブは
 「ボッ!」
という音を出し、小さな爆発を起こした後に、着火したのだった。そのガスストーブは、自動点火ではなかったのだ。翌朝私は、そのガスストーブの着火を無用にしていただき、宿を後にしたものだった。
 
 蛇足:まるで関係のないおまけ                          
 久しぶりにスメタナ弦楽四重奏団の演奏を聴きながらのタイピングだった。この楽団の大きな特徴は3つだろう。永年メンバーを代えないこと。指揮者はいない。全員が暗譜演奏をするということだ。暗譜演奏なので、お互いがメンバーの動きや表情を確認しながら演奏しているのだ。BGMとしては良いCDを選んだものと自分で自分を褒めたい気持ちだった。
 演奏内容は次の通り。
 1 ハイドン 弦楽四重奏曲 第63番 ニ長調 「ひばり」
 2 モーツアルト 弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 K.465 「不協和音」
 3 ドヴォルザーク 弦楽四重奏曲 第12番 ヘ長調 「アメリカ」
 4 チャイコフスキー 弦楽四重奏曲 第1番 ニ長調 「アンダンテ・カンタービレ」
 H30.05.02